murmur **

君想い、午後3時の白昼夢

感情を言語化するということ

 人間の感情なんてすきとかきらいとかそんな簡単な言葉で表せるほど単純じゃないし、言葉にできない気持ちの方がたくさんある。そういう言葉にできない感情に出会った時に、なんていうか、すっごいむずがゆくなってもどかしくなるんだけど、それでもなお、それを言葉に表すことはできない。

 まれに、思ってることをすっごくあっさりと簡潔にきれいな言葉でまとめて発することができる人がいるけど、それはごく一部の、語彙力や表現力を持ち合わせた人たちだ。生憎、私にその能力はない。だから、こういう一般人は自分の思ってることをどう説明したらいいかわからなくて、わからないけど、とか文章ぐちゃぐちゃになるかもしれないけど、みたいなこと言って自分の気持ちを無理やり説明しようとしたり、もはやわかりませんって言っちゃったりするんだろうけど、わかんないことはわかんないままでもいいんじゃないかって私は思う。

 わからないことはわからないままでいい。わからなくても確かにそこにある感情とか、事実とかたくさんあって、そこに愛がないわけじゃないんだよなあ。言葉で具現化する必要なんてほんとうはなかった。わからなくても、大切はずっと大切。わからないって言葉が嫌いだったけど、わからなくても、大事なのは今そこにある事実や自分の感情なんだと思った。答えなんてなくてもよかった。必ずしも言葉で言語化できることがこの世の全てじゃなくて、むしろ、全てを言語化できてしまったら、世界ってすごくつまらないんじゃないかとおもう。

 人間はあまり怒りの感情とか恨み辛みを人に見せたりしないから、自分の本当の気持ちについて考えた時に、そういう醜い感情ばかりが浮かぶんじゃないかって私は思う。でも、そうでもないとおもう。嫌いだけど好きとか、好きだけど嫌いとか、そういう一見正反対な言葉が普通に並べて使われてしまうように、人間の根底部分には愛があるんじゃないかなあ、否定的な感情の末路にも、どこかに愛があるんじゃないかなあ。それが人間なんじゃないかなあ。愛の形ってたくさんある。恋人とか、家族とか、友達とか。でも、どこの枠にも収まらない愛があったって別にいいんじゃないかなあ。愛って何なんだろうな、わたしってなんなんだろうな、生きるって何なんだろうな、でも答えがなくてもいいんじゃないかな。

 感情っていうものを100パーセント言語化しようとしたときに、私が行きついたのはそういうことだった。わかんないって言葉は逃げだと思ってたけど、人間なんだから、逃げたっていいんだ。胸をはって逃げよう。言語化できない気持ちも、ちゃんとわたしの気持ちだ。

 

(矛盾だらけの午後8時、)